【昭和体験談エピソード17】バットや竹刀をもつ先生、アレルギーはわがまま?今なら大炎上まちがいなしのエピソード。

エピソード

昭和時代の何気ない日常を知りたい!残したい!
そんな思いから、昭和時代を過ごしてきた方の体験談などを紹介していきます。

「あ~、そんなことあったな」と共感したり、「そんな時代もあったのか!」と驚いたり、この企画が昭和という時代を身近に感じ、それぞれの思いで楽しむきっかけになれば幸いです。

今回は、昭和時代の学校に関するエピソードを紹介します。

"学校の日常風景が、今の時代なら大炎上だったと感慨深いものがある。

小学校では、そろばんや定規やコンパスを忘れると床に正座して椅子の座面が机代わりになった。中学校では何人もの教師が金属バットや竹刀を持って歩いていた。遅刻や忘れ物があるとそれでしばく為。フリーハンドの教師はげんこつでこめかみを小突くのがデフォルトだった。

そして給食は残すことが許されず、泣きながら牛乳を飲んでいる子が必ずいた。当時「食品アレルギー」という概念はなく「ただの我儘」とされていたから。

ちなみにうちの学校では年に一回デザートに雪見だいふくが出ていた。そして運の悪いクラスがだいたい1クラスはあって、液状化の憂き目に合っていた。"
(昭和48年代生まれ 女性)

※あくまでも個人のエピソードです。昭和時代を過ごしたすべての人に当てはまるとは限りません。

今回のエピソードはいかがでしたか?

情報量が多いので、以下の3つに分けて解説していきます。

・今では体罰になるあれこれ
・アレルギーの概念がなかったら…
・年に一回の特別なデザート

今では体罰になるあれこれ

”小学校では、そろばんや定規やコンパスを忘れると床に正座して椅子の座面が机代わりになった。中学校では何人もの教師が金属バットや竹刀を持って歩いていた。遅刻や忘れ物があるとそれでしばく為。フリーハンドの教師はげんこつでこめかみを小突くのがデフォルトだった。”

このような光景は、体験していないと想像するのが難しいのではないでしょうか。

授業中の長時間にわたる正座、なにかあれば金属バット・竹刀・こぶし(学校によっては木刀の場合も)でしばいてくる先生、今ではどれも体罰だとされているので大問題になりますよね。

苦痛を与える教え方がよいものだとは言えませんが、なかには「そのような教師がいたから、喧嘩の力加減をおぼえた」「どのように怖い先生と仲良くなるか頭を使った」というように生きる術を学ぶ場として今では感謝していると考えている人もいるようです。

その時は当たり前でも、時代が変われば当たり前も変わります。今の教育もおかしいと言われる時代が来るのでしょうか…。

アレルギーの概念がなかったら..

”そして給食は残すことが許されず、泣きながら牛乳を飲んでいる子が必ずいた。当時「食品アレルギー」という概念はなく「ただの我儘」とされていたから。”

最近では、給食を残さずに食べようという「完食指導」も場合によっては体罰だといわれてしまいます。

また、今となっては当たり前のように配慮がされる「アレルギー」という概念が、日本で初めて唱えられたのは1970年ごろ。

一部のアレルギー物質の食品表示が義務付けられたのも2001年4月からとなっていて、アレルギーに対する配慮がされるようになったのは、とても最近になってからだということが分かると思います。

人によっては重度のアレルギー反応が起こってしまい、命の危険もあるので、アレルギーを持つ人が安心して過ごせる今の時代はよくなったと言えるのでしょう。

年に一回の特別なデザート

"ちなみにうちの学校では年に一回デザートに雪見だいふくが出ていた。そして運の悪いクラスがだいたい1クラスはあって、液状化の憂き目に合っていた。"

地域によるとは思いますが、学校でアイスが食べられるなんて子どもは飛び上がるほど嬉しいですね!

そして、雪見だいふくはその頃から親しまれているアイスだったことに驚きです。

せっかく楽しみにしていたアイスが溶け切っている時の絶望といったら測り知れませんが…どこか微笑ましい光景ですよね。